令和3年3月6日、再訪:令和6年11月16日
福島県の豪雪地帯、昭和村に古い小学校の校舎が残されている。一度は解体の予定があったものの、現在は村によって維持管理がなされ、無料で見学することもできる。校庭には大きなイチョウの木があり、晩秋には校庭が黄色い絨毯が敷かれることでも知られる。今回行ったのは雪の残る3月であったため、道路以外の地面は雪化粧であったが、ここ数日は降雪がなく、ノーマルタイヤでも問題ないレベルだった。除雪、凍結防止剤の力は偉大である。
写真はどうぞご自由にお撮りくださいと中に招かれる。自由に見学できるのは高ポイント。付近だと茨城県大子町の旧上岡小学校が有名。
階段の踊り場。廃校になったのは昭和55年で、現在が昭和換算96年であるため、最後の卒業生も50歳を過ぎている計算だ。
廊下。なんと言う暖かい空間であろう。
教室。
割と新し目のタイプの鍵。それでも哀愁を感じる。
足踏みオルガン。
かなり冷え込む地域であり、木造校舎であるから、朝方の室温は氷点下になるくらいではなかろうか。ストーブが欠かせない。
教室は「1、2学年」という具合に、2学年で1つの教室を使っていたようだ。
それがその教室。2学年で1つの教室を使っていると言うが、それでも教室の大きさは通常の半分程度しかない。
机上には昭和3、40年代の教科書が置かれていた。新潟旅行の冊子もあった。当時は白河方面(東方面)へ向かう甲子隧道の開通はなく、付近に大きな街はないし、細い道ばかりだしなかなか大変な地域であったのではないかと思われる。
豪雪地帯で育った子供達は、今どこで何をして生活しているのだろうか。教室の片隅には昭和41年卒業生による日本地図の作品が飾られていた。今から半世紀以上前のものだ。日本の形は変わっていない。でも、色んな事が変わっていく。自分が小学校を卒業した平成20年も、あと30年もすれば遠い昔のことのように語られるようになるのだ。それを知りながら、あまり気にしないように日々生きていく。気にしてしまったら、なんだか自分が老いていくだけの人間であると嘆き悲しむことになるから。
割烹着や手提げ袋をかけていたのであろう。当時の小学生の名前シールがそのまま残されており、富士夫さん、等、自分が小学生の頃にはとうに使われなくなった名前が並んでいた。
勤務時間表。教材の作成や指導方法の見直し、面談や行事の準備等、職員は授業以外に多くのことをしなければならない。そう考えると、残業時間は相当なものになるのだろう。実際、現在においても職員の過労は度々耳にする。
外にはかまくらが作られていた。こんなに雪が積もっているところに来るのは初めてで、もしかしたら人生25年目にして初めてのかまくらだったかもしれない。中から、かつての小学校の校舎が見えた。自分が通った小学校の校舎は、残念ながら平成19年に取り壊されてもうない。でもこうやって、後になっても自分の学びやが姿を残してくれているのは、卒業生にとって、この上ない喜びだろう。当時を思い出させてくれる世界がそのままに残っているのだから。
~ここから再訪~