令和3年8月7日
釧路市の東部に、浦幌炭鉱からなる街がかつて形成されていた。大正中期に街は大きくなり始め、小学校、さらには高校ができるほどにまでとなった。最盛期の昭和25年には3600もの人がこの町に住んだ。しかし、昭和29年の閉山を機に、人口は急減し、現在は人ひとり住まない無人地域となっている。ここにはかつて走っていた炭鉱鉄道の遺構と住宅が遺されているとの噂を聞きつけ、札幌より車を走らせやって来た。かつての街の要所には「ここには◯◯がありました」と示す看板が立っており、多少の観光地化を試みた形跡はある。
尺別隧道があると示す看板の前のくぼみに車を止め、隧道に向かう。看板の立っているところから隧道を確認することはできないが、付近にある橋台から、かつての鉄路の描く軌跡は想像できるため、その方角へと足を進める。
周辺はこんな景色。
至る所に廃れた標識が。えぇ、これでも現役の道道なのだ。
いい雰囲気。
さて、橋梁が架かっていたであろう箇所と、現在いる場所との高低差は15mほどあり、斜面を登る必要がある。かつての観光地化計画?のおかげか、なんとなく道の名残があるためそれに沿って進んでいく。植物が茂って虻が多いため、流石に普段着程度では痛い目を見るが。
柵は途中で途絶える。
その脇には、隧道跡を示す看板が倒れていた。
そこから柵の向こうを見てみると、50mほど先に隧道の抗口が見える。
抗口の手前は崩落しており、安易に近づくことはできない。一応、左下から侵入経路はありそうであったが、装備的に不安があったため(ヘッドライトすら身に付けていなかった)、侵入は断念。
付近には住宅跡もある。
盛夏の訪問であったため、建物へ近づくには半ば藪漕ぎの状態となる。
掻き分け進んだ先に見えるこの圧倒的な雰囲気に思わず息を飲ませられる。
廃と緑の融和が狂おしいほどに決まっている。
お邪魔します。
半世紀前、ここに人が住んでいた。
窓から差し込む緑の光。
長年の雨が、いつの間にか鍾乳石をもたらしていた。
残留物は皆無と言って良い。便器和え綺麗に取り払われている。唯一、サンダルが遺されていた。
階段。2階へのぼる。
全ての部屋の大きさは同じで、間取りを楽しめるような多様性もなく、無機質なコンクリート空間が広がるだけだ。
建物は同様のものが3棟並んでおり、一番端の建物の窓からは、2棟向こうの窓まで通しで眺めることができる。プライバシー的な考えはあまりなかったように感じる。それよりも、建物が一直線に並ぶ「美」をとったのかもしれない。
それでもこうやって、襖や窓枠が一部残っていたりすると、かすかに人の住んでいた往時の景色が目に浮かんでくる。ほんのかすかにであるが。
屋上は植物が繁茂しており、やや太い幹の木々さえも立っていた。どうにかその姿を上って確認してみたかったが、屋上へ続く階段はどうやら内容で、2階までの散策とした。しかし、2階の一部は壁が崩落しており、ご覧の有様だ。
この建物が跡何十年持つかは分からないが、これを廃墟と見るか、それとも遺跡とみるか。そして、怖いものと見るか、「美」と見るか。どう見るかで、この建物との向き合い方も変わるかもしれない。
集落後の外れには、美瑛からは何百kmも離れているが、青い池のようなものがあった。池を撮り、散策で得たいい思い出を胸にしまい、集落を後にした。