令和2年5月31日
飯能市の西部、秩父上名栗線の末端にあった鉱山とその集落跡の散策をした。白岩鉱山自体は平成27年まで川崎製鉄系の企業が平成27年まで稼働していたが、あえなく閉山した。その近くにあった集落は閉山よりも20年前の平成6年頃に人が山を降りたという。自分が生まれた頃だ。
ちなみに鉱山前自体は立ち入り禁止ではなく、行き止まりとなる道の末端位はなんとなくした空間があるので、そこに車を駐められる。しかし鉱山の遺構とのツーショットがかっこいい。
さて、集落への道は登山道にもなっていて、鉱山遺構脇から伸びる細い道を上っていくとたどり着ける。集落は2つに分かれており、途中三叉路になっているのを右に進むと集落①へ(写真の民家と書かれているところ)、道なりに進むと登山道兼集落②へと続く。
ハイキングコースは早々にこんな感じで土砂崩れが起きているが、右から大きく回れば先へ進める。これ以上に崩壊しているところは今回出会わなかった。最初にして最大の難関だったのである。
さすがは最近まで稼働していた鉱山、上の方には新し目のモノレールを見ることができる。往時は、奥から採
れた石を運んでいたのだろう。
鉱山遺構は上から見てもなかなか壮大である。
登山道は鳥首峠につながっているらしい。なかなか物騒な名前だ。
さながら埼玉のマチュピチュだ。
かつての坑道と思しきものも見える残念ながら立り禁止の明示がされているが、その看板も朽ちるだろう数十年後にどうなっているか、楽しみだ。
ハイキングコースをどんどん登り、三叉路を右に登って集落①へ行く。電柱の変圧器が下に落ちていた。
こちらの集落には6、7件の建物が倒壊せずに残っている。一軒ずつお邪魔していこう。
暗闇を覗く時、暗闇もまたこちらをのぞいているのだ。
開けろ・・・??Σ(゚д゚lll)
平成7年の冊子が。人がいなくなる直前のものだろう。
昭和63年のタウンページ。まだ分厚かった時代だ。タウンページといえばこの色だが、最近は雑誌のような外観になっている。
それぞれの家には、それぞれの物語があったのだろうと思う。
退去時にものを全て持っていった家、そのままにした家、どちらがお好きですか。
自分の家にはテレビがないけど、この家はテレビしかないみたい。
役は果たせたのか。自分の人生と重ねてしまう。
水周り集。
なぜ風呂桶が埋められているの・・・?
ハイテクな学習机のギミック。
捨てられた家電達。
もう一つの集落へ向かおう。登山道に復帰して1kmほどかなり勾配のきつい道を登ることとなる。
途中今にも崩れそうな木造橋があった。ちゃんと迂回路はあるのでご安心を。
緑に誘われて。
勾配はかなりきつい。途中途中でモノレールの軌道と交差する。
昭和49年建柱。こんな細くて息の上がるような未舗装の勾配にどうやって電柱を持ってきて建てたのだろう・・・。すごいと思う。
集落の入口にはラジコンが置かれていた。結構新し目だ。そういえば自分はパジェロとインプレッサのラジコンを持っていた。
こちらには5軒ほど家屋があり、1軒は崩れてしまっていた。
集落入口の建物裏にブランコがあった。
まだしっかりと動く。少し遊ばしてもらった。
唯一入口や窓が塞がれた家。そりゃ部外者に荒らされるのは嫌だもんなぁ。
この集落のランドマークであった赤い車の残骸があった。どうやら上物が誰かに持ち去られたようだ。ツイッターを確認すると令和2年の4月ごろの出来事のようだ。
怪獣の足だけを残しておいていくあたり、同一犯かどうかは分からないが、いい趣味はしていないことは分かる。こんなところに来ている自分がいい趣味を持っているかと言われると首を縦に振ることはできないが。
かつての少年の胸を膨らませたのであろう。
暖かい色をした縁側であった。
今年初の廃集落散策、とても充実したものであった。
さて、次はどこへ出かけましょうか。